先日の相馬買い物バスツアーの参加者から、感想をいただきました。ありがとうございました。
バスは常磐自動車道を北に向かって快適に飛ばしていた。朝から陽の光がまぶしい。抜けるように澄んだ青空が、こんもりとした里山の緑や収穫を待つ稲穂の黄金色を際立たせている。初秋の東北は長閑だった。
2015年10月3日、東日本大震災からの復興に少しでもお役に立てればと、私は早朝から空のリュックを背負い、NPOが主催するツアーバスに乗り込んだ。
バスは南相馬市に向かってひた走る。横浜を6時半に出発して、まもなく4時間になろうとしていた。
楢葉町辺りからだろうか。それまでの長閑な車窓の風景に、黒いしみのような点がポツンポツンと目立ち始めた。森林の茂みの中や水田の隅に、家の軒先にも、異様な黒い袋が積み上げられている。
「あれは、除染作業で出た廃棄物が詰まっているフレコンバッグです」と、スタッフが教えてくれた。
やがて、その黒い袋は、点から線、線から面へと大きな固まりとなって連なり、まるで砦のように、緑の田園風景を占拠し始めた。
原発事故の後始末に苦しむ福島の今を象徴するような風景に、心が痛む。
ひときわ大きな塊には、上から一面にシートが被せてあった。
「あれは、仮置き場に運ぶ前に置いておく仮仮置き場です」
現状では、最終処分場はおろか、中間貯蔵施設も完成していない。仮置き場さえ不足しているという。仮置き場や仮仮置き場は、いつまで「仮」のままそこに置かれるのだろうか。
これは、福島だけの問題ではない。
「原発の電気は関東の人が恩恵を受けているのだから、廃棄物も責任を負うべきだ。恩恵だけ受けて責任を負わないのは身勝手だ」
福島に住む友人の言葉が、胸に突き刺さる。彼に、今回のバスツアーを知らせたメールの返信だった。
バスは、高速道路を降りて、南相馬市内に入った。
市役所の前に『脱原発都市宣言』と書かれた看板が立っていた。
『2011年3月11日、東日本大震災により南相馬市は未曾有の被害を受けた。
さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴い6万人を超える市民が避難を余儀なくされ、多くの市民が避難の中で命を落とした。
家族をバラバラにされ、地域がバラバラになり、まちがバラバラにされ、多くの人が放射線への不安を抱いている。
南相馬市はこの世界史的災害に立ち向かい復興しなければならない。
未来を担う子どもたちが夢と希望を持って生活できるようにするためにも、このような原子力災害を二度と起こしてはならない。
そのために南相馬市は原子力エネルギーに依存しないまちづくりを進めることを決めた。』 (平成27年3月25日 告示第29号)
市のホームページを見ると、こう宣言されていた。この国に、住民の思いが届く日が来るのだろうか。
午前11時、最初の訪問先となるJAそうま農産物直売所に着いた。朝採りした農産物を地域に提供する、地産地消の直売所「旬のひろば」だ。
いよいよ本日のメインイベントの始まりだ。さあ、買いまくるぞ!と、その前に、店舗の裏側にある倉庫に案内された。学校の体育館ほどの大きさだ。中はひんやりとしている。入いるとすぐに、真新しい装置が目を引いた。米の放射線検査のための装置だった。ここで、持ち込まれた米を一袋ずつ、全袋を検査している。最近は、ほとんどが合格だという。
ところが、倉庫には今朝検査したばかりの米袋が、片隅にぽつんと積まれているだけだった。検査には合格しても、生産量自体が激減しているためだった
早く米いっぱいの倉庫になれ!ガランとした倉庫を眺めながら、そう願わずにはいられなかった。
店舗前に戻って、地元生産者の説明を聞く。農家の女性リーダーだ。日焼けした顔に優しい笑みを湛えている。福島弁が柔らかい。
季節ごとに旬の野菜を揃えて、様々なイベントを打っているという。
ツアー参加者から、風評被害について質問が出た。
「ここでは全て検査していますので安心ですが、それでも以前は『これはどこで穫れたもの?』と聞く人もいました。今ここに来る人は、地元の生産物と分かって買いにくる人です」 と、女性リーダーはキュッと口元を引き締めた。
直売所には、旬の野菜や果物が所狭しと並べられていた。ナシの試食コーナーがあった。早速、口に放り込む。シャキッとした歯ごたえが旬を感じさせる。上品な甘さが口いっぱいに広がった。中玉の豊水が4個で300円。
「これ、安いですよね?」
居合わせた女性参加者に尋ねる。その女性も一口放り込んでから、にっこりと頷いた。
地酒コーナーにも目が行く。『夢そうま』は相馬のブランド酒だ。この先どこで買えるか分からない。えい、買っちゃえ!
レジに並びながら、目の前の米粉のパンにも手を伸ばす。イチジクのジャムは珍しい。バスに戻って、買った品物をリュックに詰め込む。早くもはち切れそうだ。
正午過ぎ、予定の時間よりやや遅れて、『報徳庵』に着いた。相馬市の仮設商店街で営業する復興レストランだ。名前のいわれは、神奈川にもゆかりが深い二宮尊徳から来ているそうだ。
ここで昼食をとる。朝食が早かったせいで、胃の中はとっくに空っぽだ。
若い女性スタッフが、「私は人前で話すのが苦手です」と、恥ずかしそうにあいさつを始めた。
「今日のランチはアジフライです。震災以降、捕れなかったアジが、相馬でも捕れるようになりました」と、いかにも嬉しそうだ。さっそく、いただく。カリカリっとした衣から柔らかなアジが顔を出した。うまい!
次の訪問先は、水産加工品のセンシン食品だ。相馬のおんちゃま(おじさん)こと高橋永真氏の話を聞いた。
話し出したら止まらないと言う前評判どおり、言葉が弾丸のように飛び出してくる。震災から津波、そして原発事故を乗り越えて、何とか加工場の再建にこぎつけるまで、淀みなく語り続けた。
「世界一厳しい放射性物質の安全検査をしていても、一向に風評被害が無くならない。みんな放射能には敏感なのに、添加物には無頓着だ」
そう熱く語るおんちゃまの顔からは、悔しさが滲み出る。
福島県の漁業は、原発事故で大打撃を被った。今も操業自粛を余儀なくされている。漁業再開への道のりは険しい。
「今日は特別だ。3個で1000円!2袋2000円で持ってって!」
そう言って、素早く銀色の保冷袋を配る。
卓球台のようなテーブルに並べられた冷凍の水産加工品は、どれも試験操業で捕れた魚介類だ。福島県が実施している2万5千を超えるモニタリングの結果、安全が確認されている魚種に限って、小規模な操業と販売を試験的に行っているものだ。「試験操業でようやく64種類まで捕れるようになった。そこにあるシラスは最高だよ! 江の島のよりうまいよ!」
ユーモアたっぷりの語り口に、つい引き寄せられる。全国に彼のファンが増えているというのも頷ける。
話し終わると同時に、ツアー参加者が一斉に陳列台に群がる。
刺身用のタコ、ごはんにかける浅漬けの漁師料理、アジフライ、塩辛……。手にした保冷袋はあっという間に満杯になった。
センシン食品の隣にあるカネヨ水産が、この日最後の買い物場所となる。ボイルダコやボイルツブ貝などが目当てだ。
コンビニのような店内に入った途端、年配の女性に呼び止められた。
「このもずく買ってって! これで100円だよ!」
見ると、人懐っこそうな笑顔で、赤いビニールの網袋をぶら下げている。小さなカップが4個入っていた。
「これで100円? じゃ、もらいます」
思わず口に出た。
「都会の風を運んできてくれて、ありがとう」
レジに向かいながら、女性が白い歯を見せる。
「こんな風でよかったら、いつでも来ますよ」
と、調子を合わせた。
店の前には、道路を隔てて海が迫っている。松川浦の入江だ。大小の島が浮かぶ風光明美な景色は「小松島」とも称される。
だが、ここも巨大津波に襲われていた。この道路も修復されている。道路の下では、小さな波が戯れていた。穏やかな海からは、津波の惨状は想像もつかない。しかし、津波が来なかったら、私がここに来ることもなかったかも知れないのだ。複雑な思いのまま、私はレジ袋をぶら下げて、バスのステップを踏んだ。
帰路は、国道6号線を南下する。常磐自動車道よりさらに海側を走るこの道は、福島第一原発の近くを通る。途中、避難指示解除準備区域、帰還困難区域、居住制限区域を通過することになる。
2014年9月からは、双葉町、大熊町、富岡町の帰還困難区域内14キロメートルも通行できるようになったが、許されているのは自動車のみで、依然として、バイクや自転車、徒歩では通れない。
バスは、南相馬市の避難指示解除準備区域に入った。津波に流され、雑草でびっしりと埋め尽くされた水田跡が、無残な姿をさらしている。
やがて、市街地の小高区に差し掛かる。ここは、立ち入ることはできても、住むことができない町だ。人気のない町並みは、不気味な静けさだ。
街中では家の軒下にも、がれきやフレコンバッグが放置されている。道路沿いの住宅には、閉まったままのカーテンが、主人の帰宅を待つかのようにひっそりと垂れ下がっていた。この地区は、来年4月には規制が解除されるらしい。
まるでゴーストタウンのような町の一角に、新規開店を知らせる立て看板が出ている。駐車場の奥に、平屋建ての店があった。屋根の看板には大きな文字で『東町エンガワ商店』と書いてある。急遽、買い物場所に加わった店だ。
店長の話を聞くことができた。彼は4ヶ月前まで、サラリーマンだったそうだ。震災後、何度もボランティアに来ていたが、この町の復興を信じて店を開けたのだという。
今は、一時帰宅の住民や復旧工事の業者、ボランティアなどが利用しているが、来年4月から戻って来る住民のために、今からここで頑張るのだという。
私もわずかでも売上に貢献しようと、さっそく財布を開ける。すでにリュックは満杯なのだが……。
いよいよ帰還困難区域に入った。バスのエアコンは、車内循環に切り替えてある。
ほとんど全ての住宅の前に、格子縞の鉄柵が設けてあった。立ち入り禁止区域なのに、柵など必要なのかと疑問がわく。どの交差点でも、赤色灯を回したパトカーが警戒していた。脇道に入ることは許されていない。
沿道には、地震と津波には堪えたのに、長い不在には堪えられなかった家屋が荒れ果てた姿で並んでいる。食料品店の陳列棚には、商品がそのまま放置されていた。
異様な町並みを、バスは静かに通り過ぎる。車中は、重苦しい沈黙が続いていた。
『帰還困難区域とは、避難指示区域のうち、5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の区域である。同区域は将来にわたって居住を制限することを原則とし,同区域の設定は5年間固定する』(平成23年12月26日 原子力災害対策本部方針)
沿道の放射性レベルを知らせる電光掲示板には、4.6マイクロシーベルトと表示されていた。
「この値は、朝通った常磐自動車道と同じです」
と、スタッフがアナウンスした。
これは何を意味するのだろう? ここもそろそろ避難指示解除準備区域になるのか、それとも逆に、周辺地域の解除が早過ぎたのか……。
どちらにしても私には、帰還困難区域は、完全な廃墟となるのを待つだけの、言わば“廃墟準備区域”のように思えてならなかった。
避難指示区域を抜けて、バスが楢葉町に入ると、どっと眠気が襲ってきた。
自分でも意識しないうちに緊張していたのかもしれない。すでに、日はどっぷりと暮れていた。
福島はいつ、地震、津波、原発、風評被害の四重苦から解放されるのだろう。
私は、福島を忘れない!
薄れゆく意識の中で、頭の一点だけが働いていた。
◆ 記 ツアー参加者 下元 省吾 ◆