2015年5月16日(土)、16時より気仙沼ミサンガプロジェクト代表、平田洋子さんを講師にお招きし、講演会を開催しました。
平田さんは、元々東京生まれ。気仙沼市とのかかわりは、今から14,5年前にお姉様が気仙沼のとある製麺会社に嫁がれたところから。当時バブルが崩壊した後で田舎の企業は大変な状況で、10年くらい前から東京と気仙沼を行ったり来たりして製麺会社をお手伝いをされていたとのこと。
平田家が住んでいたのは、松岩地区の片浜という被災状況が96%という地域の3階建てマンションの3階。震災時は高台の小学校に逃げて流されることはなかったが、住んでいたマンションの家財道具は全て流されてしまった。
元々は介護職に携わっていて、10年間の介護実績がある。たくさんの人が亡くなり、家は流されたけれど、自分は無事でいる状況で、何もしないというのがつらかったとのこと。お姉様の嫁ぎ先に間借りさせてもらったけれど、食べるものもない、電気も水道も使えないような環境で血のつながりのない人たちと一つ屋根の下にいることも苦痛で、何かできることはないかと思って市役所に出向いたのが震災から3日目。
ボランティアセンターもまだできていない、市役所もきちんと機能していないような時で、行政の手伝いをしたほうがいいのか、避難所とかに行って介護職としてのキャリアを活かした方がいいのか悩まれ、最終的にはボラセンの立上げをお手伝い。
岩手県は、物資を企業や行政などからしか受け入れなかった。宮城県の気仙沼は、整理がつかないほど物資が集まった。体育館4棟分くらいはすぐにいっぱいになり、スペースが足りなくて岩手県で倉庫を借りたほど。これを仕分けする部隊を作ったグループの一員だった。大学の頃に阪神淡路大震災が起き、学生の仕事として物資の仕分けを行った経験があったとのこと。
被災者はある程度時間がたつと、ユニクロからの物資があるのに、なぜ古いものを使わなければならないんだろうと思うようになり、古着は残ったままになる。物資は、当時97箇所あった避難所に配布されたが、余るようになり避難所から市役所に戻されるものも多数。
家は流されていない人たちが、その余った物資をもらいに行ってもわけてもらえなかった。市役所では「家の近くの避難所に行ってもらって」と言われ、避難所に行くと「家が流されていないのに、何もらいにきてんの」と言われた。
当時はスーパーもしまっていた。家が残った人たちは、避難所に率先して物資を提供したので、在宅の人たちに物資は届かなかった。
どうにかならないかと思って社協や日赤の人たちに毎日のように相談した。最終的に宮城県社協で「瓦礫撤去が第一義と決まりましたので在宅の方及び避難所にも社協から直接お手伝いはしません」と震災一か月後に決定された。物資より、人より瓦礫撤去が先と決めたのが宮城県。
市のやり方、社協さんのやり方では市民は救えないと思って、在宅の人とボランティアさんと12~3名で立ち上げたのが「聖敬会」。当初は宮城県外の友達から気仙沼の航空写真を送ってもらい家が残っている状況を把握し、地図を片手に一軒一軒訪問する活動を始めた。
建物が残っていても行って見ないとどのように暮らしているのかわからなかった。気仙沼市24000世帯のうち9500世帯が流出。震災から10日後~夏くらいまでに約6000世帯回った。訪問すると「私たち家を流されてないので被災者じゃない」という人が多かったが、「大変じゃないですか?」と聞くといろいろ問題を抱えている人がいた。家が流されていないから相談できないんじゃないかと思っている人がたくさんいた。
ゴールデンウィーク頃、70~80のNPOやNGO、ボランティア団体などが気仙沼に入ったが、在宅支援をしていたのは「聖敬会」だけ。他は避難所に行くか瓦礫撤去をするかで、在宅避難者のことを考えてくれるところはなかった。震災の1年後くらいからは、社協さんたちが回るようになったが・・
そういう家々を回り、色々お話を聞きながら自分たちにできることは何かを考えてきた。お金もない団体でできることは稼ぐためのシステムつくりかなと思った。それが気仙沼ミサンガプロジェクト。一番考えたのが震災前のパートと同じくらいの収入になること。
ご主人が漁師の方以外、奥さんはたいてい働き、子供は祖父母が面倒を見ているという状況。震災前、缶詰工場とかカキやわかめの養殖手伝いパートで3~7万円くらい稼ぐ方が多かった。
当初ミサンガは500円で販売。刺繍糸は寄付してもらっていたので、作り手に455円支払えるシステム。本人が収入を得られること、働く意欲を出すことを大切に活動している。お金を得ることを考えたら一人で作る方が効率良い。基本的に同じような商品は少ない。多い時で180名いた作り手さんたちには「作り手の中で一番になれ」、と言っている。並んでいる中で選んで買ってもらえるのは1つだから。商品に作り手の名前がついていて、必ずその人の収入になるシステム。オリジナリティを出さないと売れない。これが他の手仕事系のものとの一番の違い。商品には震災時の作り手さんのエピソードを入れている。これは第3者の方に一人称で文章を作ってもらっている。はがきになっていて、本人に届く。今後のつながりを作りたいなという思いもあってこのミサンガプロジェクトを始めた。4年間続いている。もっと早く終わると思っていた。個々の状況・事情を聞き取る為に個別にこだわった。
関東から見ている被災地、被災者と違うと思う。仮設店舗以外の店も大変。残っている家に住んでいる人もいるし、大変な会社も多い。次回気仙沼に行くことがあったら違う見方もできるので是非仮設店舗以外の店にも行って見てほしい。色々な話を聞くことができます。
講演後の意見や感想
・在宅避難者のことは被災するであろう心構えとして知っておかなければならない
・当時のリアルな体験・エピソードとしてだけ受け止めるのではなく、それをどう神奈川に活かしていくのかが大事