【報告】9/19-21 日本自然保護協会+かながわ311ネットワーク共同企画 小泉砂浜調査隊

今回の写真は一部を除きクリックで拡大できます。ぜひクリックしてご覧ください。

9月19日夜発の夜行バスで、日本自然保護協会(Nacs-J)との初の共同企画便、「小泉砂浜調査隊」に参加、気仙沼小泉海岸へ行って参りました。以下、一参加者としての報告です。

東北のみならずこれからの世界は、自然の脅威をハードで防ぐのではなく、もっと古来からの、厳しい自然であっても、そういう特性を持った場所ではどういう生き方、街づくりができるのか考えることが大切なのでは?自然と共存しながら、環境破壊の負荷をさげながら暮らすことはできないのか?と以前から感じていました。
一方で、そこに暮らす人々の気持ち、考えを知った上でものを言う大切さも感じていました。
その両方の感覚を参加者全員で感じ考えあえるのでは、と、自然保護協会の方から「気仙沼で関東圏の人を連れて行って、気仙沼小泉海岸で自然調べを行いたい」と相談されたとき、思いました。

そこでかながわ311ネットワークを巻き込んで、共同企画でバスを出せないだろうか、そうすれば災害ボラの人も自然観察が好きな人も双方が違う視点で東北を見ることができるだろうと思ったのです。

人間の周りにあるものはすべて地球に元からあった自然物を加工して作り上げたものなのに、いつしか人は自然と人間を分けて考えるようになってしまいました。さらに、人間の知恵で自然を征服できるという意見も散見されます。それはとんでもない思い違いであることは、3年半前のあの震災の時に誰もが実感した、と思いきや、津波を防潮堤で制御しようという考えに基づいて、今、東北はじめ全国の海岸がコンクリートで固められようとしています。

とにかく現場を見なければ。現地はどうなっているのかを見ながら、頭だけでなく体ごと感じたいという気持ちでした。

■震災前と震災後、風景の違いに呆然
到着した小泉海岸は長さも奥行きもものすごく大きなすばらしい海岸でした。長い浜辺、いい感じで立つ波はサーファーにも愛され、夏の美しい青い海と長い砂浜は海水浴場というか、リゾート地として、小泉地区の人々にもまして、内陸部の人々に愛されてきた海岸だったそうです。訪れる人は年間5万にも上っていたそう。
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今、まるで震災遺構のようになっている建物は、震災時にはすでに廃墟になっていた「南三陸シーサイドパレス」というホテルで、昭和47年に建設されたものです。周囲にはボーリング場や遊園地があり、まさにリゾート地として近隣の人々が集まり、結婚式を挙げたりもしていたそうです。
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その建物、海上ホテルだったのか?と思いきや、元々そこは陸地だったと聞かされ、ビックリ、だって周囲どう見たって海ですし、私らが今立っている場所は長い長い砂浜で、建設できるような地盤じゃありません。

今回の講師の一人、阿部正人先生に話を聞いたら、かつての海岸は今の海岸の沖250mにあったのだとか……。海岸の一番北の奥の方の沖合に崩れたコンクリートの何かがありましたが、それがかつての防潮堤だったときいて驚きです。その一部分を残しまるっきりなくなっています。その手前には、松林があったそうですが、1本も残っていません。
そうなのです、この海岸は地盤沈下してしまい、かつての海岸沿い陸地が今の砂浜になっているのです。

それも震災直後になったのではないことを、あるブログで知りました。小泉で波乗りをしていたサーファーの方のブログです。

震災直後はむき出しの土だったのが、1年2ヶ月後には砂が戻り砂浜になっていたということです。その海岸を私達は歩いたのでした(許可が得られましたらリンクをはります)。
だから、今の砂浜は田んぼのあった海よりも陸地寄りの場所であるため、地権者のいる私有地の海岸ということになります。

しかしこの場所に初めて訪れた者には、いくら地図や言葉で説明されても、目の前の風景が以前はどうだったということを想像しにくかったです。3年半経って、以前とはまるで異なる風景がもう定着しつつあります。
ところが家に帰ってから震災直後の小泉地区を撮った動画を見て息をのみました。9月20日に歩いた街はこんな風に被害を受けていたんだということが一目で分かりました。
もし、一緒に行った方々がこの記事を見ていたら、下のユーチューブ映像をぜひ見てください。
私達が歩いた砂浜と、小学校から見下ろした何もない平地が津波のあとどういう状況になっていたか、まさに息をのむ思いです。

気仙沼小泉地区津波後のユーチューブ映像

途切れていた鉄道の高架、歩いて渡った橋の、前の橋が途切れて小泉地区が陸の孤島になったこと、この映像と昨日歩いた場所を照らし合わせることが必要です。
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これは、海岸に行く際に渡った東浜街道の橋ですが、Googleストリートビューの「未来へのキオク」で震災前震災後を見比べると、あっけにとられます。震災前は海に行く前に家があり、畑や田んぼがあって、海は少し遠かった。それが震災後は海まですっからかんに何もかもがなくなり、地盤が沈下して海が近くなっていることが分かります。

Google「未来へのキオク」より東浜街道より海を見る。震災前
Google「未来へのキオク」より東浜街道より海を見る。震災前 クリックで拡大
Google「未来へのキオク」東浜街道から海岸を見る 震災後
Google「未来へのキオク」東浜街道から海岸を見る 震災後 クリックで拡大

■砂浜を調査してみました
さて、海岸を歩いて、打ち上げラインをたどり、漂着物やそこで見られる生きものをチェックしていきます。
海藻はホンダワラはあまりなく、カジメやコンブ、ワカメのメカブ部分が多く打ち上がっていました。一番上の打ち上げラインはたいてい木の実が多く、私は結構好きな場所なのですが、モダマも軽い貝であるアサガオガイもヒメルリガイもなく、(私的に)あまりときめく感じではありませんでした。
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1つ、名前の分からない木の実があったのですが、講師の先生に聞いてもわからないとのことでした。調べないと……。
そして岩礁がないのに、ヨメガガサガイや、私のビーチコーミングの本拠地である小笠原では見たことがなかったユキノカサという北方系のカサガイが大量に見られ、海岸の左右にでもある岩礁から潮流の関係で打ち上げられるのかな?と想像したりしました。もしかしたら、震災後地形が変わったことと関係しているのでしょうか?
鳥の羽も何枚か拾ったんですが、鳥の羽も専門家がいなかったので「たぶん」「おそらく」カモメの仲間でしょう。という感じ。
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拾った貝がなんという仲間だったかは専門の講師がいらしていたので分かりましたが、海岸地形との漂着物の関係や、ほかの地域と違う貝含む全般的な特徴も知りたかったです。

それにしても1時間足らずでみんなが集めただけでこれだけさまざまな生きものが見つかったことは、いかに今のこの海岸が多様性に富んでいるかという証明となるでしょう。

あとは、震災前と震災後の違いを知りたかった。あれだけ地形が変わったのだから、元はどういう海岸でどういう植物が生えていて、何が拾われて、いまこうなったのはどういう影響で……という話は、あったかなかったか?あんまり突っ込んだところはなかったかもしれません。
つまり、震災によりこの場所がどう「戻った」のか「変わったのか」、あれだけの自然の脅威によって、なにが変化したのかがちょっと知りたかったかな。
※と、思ったら、なんと震災前にはこの海岸での調査は行われていなかったようです。比べようがないのかしら……。地元のビーチコマーの方とかいたらいいのになぁ。

海岸ではもう1つ忘れられないことがあります。
海岸の一番北の奥側の斜面に、「TP+14.7m 高さはここまで 計画堤防高さ」という文字が書かれた看板があります。これは、この海岸に立てる予定の防潮堤の高さを示す看板です。

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防潮堤のトップ部分、14.7mから見下ろす海岸。
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そして、看板がある場所から海岸を見下ろしてその高さを実感してみようと丘を登ってみました。

それは海岸全体が見渡せるほどで、驚くほどの高さでした。
防潮堤は高いだけではなく土台の部分の幅を取ります。その底辺幅が90m、ほとんど海岸を覆い尽くすほどの圧倒的な幅を使う予定です。
幅の部分は、今回参加した40人近い人間が、手を左右に広げて一列になっても半分にしかならないほどの長さでした。
人間同士の間隔を広く取って、底辺幅いっぱいまで広がってみました。
拡大でクリックできます。

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いかに長い土台が必要か、おわかりになると思います。

今見えている海岸の美しさは失われる、構造物で自然の力を完全に止めることは不可能なのに?
理不尽さにやりきれなさと「なんでいつも日本はこうなるんだー!」というため息がでました。

先日の広島市土砂災害の15年前、同じ広島で起きた大規模な土砂災害では31人の命が奪われました。それを受けて翌年制定された土砂災害防止法。「土砂災害から国民の生命を守るため、土砂災害のおそれのある区域についての危険の周知、警戒避難体制の整備、開発行為の制限、建築物の構造 規制、既存住宅の移転促進等のソフト対策を推進しようとする」法ですが、砂防ダムは造られても、土砂災害の恐れのある区域についての危険の周知という一番大事なところはかなり遅れているように思います。

そういう土地と知った上で覚悟を持って防災しながら住むのと、知らないで住むのでは全然違います。
最近では自然災害の規模も昔とは異なっている中、ハード「だけ」で防災するのは無理ではないでしょうか。
そこに加えて大事なのは、震災でも言われていた、その土地に古くから伝わる防災の知恵や教えをもう一度見直し、今の暮らしに取り入れることではないでしょうか?

ということとは別に、看板に至る丘を上がっていくとき、中腹に壺が転がっていて、それも新しい壺だったので「あれ?」と不思議に思いました。目を少し上に向けると、またいくつも壺があります。よく見るとそれは花瓶だったのです。ハッとしました。ここに花を供えた人がいる。つまりここは誰かが被災した場所だったのでは?
(※これは、あとで現地の方に震災の関係では無く、古い信仰のお墓のあとだとお聞きしました。もちろん、だからといってずけずけ歩いていいという訳ではありませんが、あの高台に古いお墓があったということの意味のほうが重要ではと指摘をいただきました)。

無神経にその場所を歩いてしまったことを後悔しました。

3年半という月日は、瞬間見ただけではどこが被災したのか分からない程度に工事や整備は進みました。
でも本当の復興、つまり街づくりはこれからが本番で、これからは、外の人間も一緒に街づくりに関われるような、そんな形での支援ができる時期でもあるのです。
……ということをうまく、災ボラとして他の参加者に伝えることができませんでした。反省。

■自分で見て、自分で考える
自然と共存というのは、ある意味人間がリスクを抱えると言うことだと思います。
自然を(一時的に)コントロールできたと錯覚する環境の中で生きていくのは、災害リスクをさらに高めるし、自然環境も失われます。
どちらを選ぶのが、これからの生き方なのか。震災はある意味、やり直しのチャンスとも言えるのですが、どうも旧来的な、堅牢な(実はもろい)ハードで作った檻の中で安心感を得る方向に行っているような気がしてなりません。
防潮堤は東北だけの問題ではなく、国土強靭化基本計画が成立した今、日本中の問題ともなっているのです。
どういう未来を作りたいか、どういう生き方を選びたいか、誰かに決めてもらうのではなく,自分で決めていくということも、また震災が教えてくれたことだと思います。
あの美しい小泉海岸をつぶして得られるものは何か? この先、日本中で起こることの先例として、これからも小泉海岸を見続けていかなければと思いました。
(文責・有川美紀子)