かながわ311ネットワーク(以下、311ネット)が毎月、「森の防潮堤」つくりの応援バスを出している宮城県気仙沼市のNPO法人「海ベの森をつくろう会」の菅原信治理事長が上京されました。
この機会に、横浜まで足を伸ばしてもらい、12月13日金『海ベの森をつくろう会の目指す階上のこれからと災害に備える大切さ』と題して、かながわ県民センターで講演してもらいました。
菅原理事長は講演で「すべての人が何よりも大切なことは日頃、避難訓練、防災訓練を実際に行っていることだ」と、3.11の被災直後に撮影した写真を示すとともに自分の経験を踏まえて訴えました。さらに海ベに木を植え、森をつくろうとしていることについて、
津波に耐えた木に登って助かった人が何人もいた
気仙沼では震災直後に大火が発生したが、水分を多く含んだ木の前で鎮火したーなど、
海岸近くの森の大切さを学んだためと強調しました。
以下、菅原理事長講演の概要です。
(1)私は、311以前は、防災訓練や避難訓練に参加したことがなかった。2011年3月11日の2日前にも地震があり、津波が川を遡上していた。しかし気にせず、3.11当日は気仙沼市内の会社で作業していた。地震が起きた直後、津波が来る可能性と避難については頭では分かっていても、体がついて行かなかった。逃げるという理論、理屈は分かっていても、実際にその場に立つと違ってしまう。家族や利益を考えてしまう。震災直後の避難行動を振り返っても、山の方に逃げるのではなく、海の方へ向かう車が多かった。私も内陸に向かう道が渋滞していたので海に向かって車を走らせた。何とか家にたどり着き、家屋は津波に襲われていなかったので助かった。避難訓練はやっておく必要がある。ぜひ、皆が参加して欲しい。私は、これを訴えるために生かされたと感じている。時間が経つと忘れてしまうので、孫の世代へ生き延びるための教育が必要である。
(2)津波というものに対するこれまでの考え方は、普通の水(海水)が押し寄せてくるので水の比重を基にしたものだった。しかし気仙沼を襲った実際の津波は違った。人々が捨てたものがヘドロとなって陸に戻ってきた。ドロドロの水の破壊力は異常だった。震災後の復旧活動ではアスベストが異様なくらい舞っていた。風が吹くと、この舞ったアスベストがマスクの隙間からどんどん入ってきた。残土もヘドロの混ざった残土だった。健康な人間でも具合が悪くなるような環境がそこにはあった。
(3)気仙沼市内は震災直後、町中大火に見舞われたが、ツバキなど水分を多く含んでいる木々の前で鎮火していた。水分を多く含む木々が火災延焼を止めたという実例は山形県酒田市で起きた大火でも報告されている。海岸に防風林として植林した松は根から流されたが、その近くで生えている雑木には津波に耐えたものがあり、その木に登って助かったという例が何件かあった。地震・津波に水分を多く含み根がしっかりしている木が有用だと感じた。
(4)森つくりにあたって、まず宮城県岩沼市で行われた植樹祭を見に行った。宮脇昭横浜国立大学名誉教授を招いて森つくりについての講演をしていただいた。また、同じ気仙沼で活動している「NPO法人森は海の恋人」の植樹祭にも参加するなどして、どんな木を植えたらいいかを勉強した。山から苗を取ってきて、輪王寺(仙台市)の育苗ハウスなどに倣って育苗を始めた。育苗ハウスはイオンの助成を受けた。
(5)当初は山に行って苗を持ってきて育苗していたが、植樹に間に合わないので種から植えて育苗している。神奈川の皆さんにも育苗を手伝っていただいている。第1回の植樹祭は、この畠山登美子さんの住居跡地で3000本を植え「森の防潮堤」の先駈けとなった。今年の植樹祭は311ネットの人たちにも手伝ってもらって、より海岸に近いところに植樹した。来年はまた別のところに植樹する。
「復興に向けて、とにかく流された土地に木を植えてくれと言う住民の声に復興への思いを強くした住民が集まり、「海べの森をつくろう会」が任意団体で発足し、手探りの活動が始まりました。様々な方面からの協力のもと、木を植える講習会などを開催する中、被災地沿岸部に「森の防潮堤」を造成することを提唱している仙台市の輪王寺住職日置道隆さんと生態学者の宮脇昭先生から復興への取り組みを聞く機会が有りました。その事が、宮脇先生の講演会開催と、森づくりの活動へ繋がって参りました。植樹をする用地の確保や苗木の確保、植樹方法に関して様々に問題点を抱えつつも、思いは震災で亡くなった方々の鎮魂への思いへと重なって参りました。その中で、波路上(はじかみ)地区で被災し一家全員が死亡した遺族から菩提寺に、親族の全員亡くなった土地を「鎮魂の森に」との協力がありました。」
「ここに住んでいた小学教諭の故・畠山登美子=享年50歳=は、震災前「春彼岸 津波寄せ来し浜に立つ わが曾祖父も波に消えたり」という歌を震災前、朝日歌壇に投稿していました。震災1ヶ月後に入選の通知が来たという言い尽くせないくらいの、場所であります。」
数多くの写真を見せながらの菅原理事長のお話は、大変興味深い物でした。家族や家や仕事や大きな物を無くした人たちは、なかなかまだ語ることはできない。震災に立会い、いくらか被害の少なかった自分のような人間にはこの震災を語り継ぐ義務と責任がある、と語る姿には、いつものボケの効いた菅原さんとは一寸違う迫力がありました。
記 広報チーム 田崎耕次、伊藤朋子