宮城県気仙沼市波路上(はじかみ)地区で活動する「海ベの森をつくろう会」(菅原信治代表)に協力し、復興を応援するボランティアバス「海ベの森2号」(主催・九鬼ツーリスト、企画協力・かながわ311ネットワーク)が2013年8月9日から11日に運行され、現地参加組含め40人が苗木の移し替えや散らばっていた丸太の整理などに汗を流しました。
「海ベの森1号」は準備不足などで参加人員が足りず中止となりましたが、2号は一転して参加申し込みが殺到。バスを出す神田交通のご配慮で満席状態からさらに3人分の席をつくっていただき、311ネット企画として公募する歴史的な第1号となりました。今回から中学生の参加(親子同伴)を募集、さらに横浜の他、東京での乗車下車が可能となったことも参加しやすくなったとみられます。
◆なぜ海ベに森を?
バスは9日深夜、横浜と東京でボランティアを乗せ、10日午前8時半、波路上地区の禅寺「地福寺」に到着。「つくろう会」の菅原代表と地福寺の片山秀光住職から東日本大震災時の波路上地区の被災状況と、なぜ「海ベの森」を作ろうと活動を始めたかについて話を伺いました。

お話を伺った地福寺の本堂はきれいに修復されていますが、柱には天井ぎりぎりに津波浸水線が。震災前は海側に民家が密集していて、海を臨むことはできなかったそうですが、今は海が間近に見えます。


片山住職によりますと、震災前、地福寺周辺には数十戸の住居がありました。その多くは明治29年(1896)の三陸大津波で被災し、海岸近くから高台の波路上(はじかみ)原地区に移ってきた人たちだそうですが、今回の震災で地福寺を除いて家屋は壊滅し、100人近い犠牲者を出しました。その中の畠山さんという一家の親族が地福寺に屋敷跡をメモリアル・パークとして欲しいと寄進。菅原さんや竹山住職らが遺志をつなぎ「鎮魂の森」を造成しようと平成24年1月発足させたのが「海ベの森をつくろう会」との説明でした。菅原さんからは「森つくりから未来を見つめよう」「大津波に負けない樹木を育て減災に役立てよう」「子どもの時に遊んだ森を再現したい」という思いを伺いました。
つくろう会は昨年10月、第1回の植樹祭を行い、畠山さんの屋敷のあったところに3000本の木を植えました。今回のボランティア活動は今年10月19日に予定している第2回植樹祭に向け、新たに植える苗木を1本1本苗木ポットに移し替える作業と、畠山さん方の屋敷林を作っていた杉を伐採した後、近隣の敷地に残っている丸太の移動、さらに時間があれば「お伊勢浜」の海岸清掃まで進めようとの計画です。
◆苗木をポットに
苗木を育てている育苗ハウスは植林地区から約2キロ離れており、お伊勢浜沿岸を歩いて向かいました。


今回ポットに移し替えるのは、山で種子を拾って芽が出るまで一緒に育てたシロダモ(シロタブ)。クスノキ科の常緑樹で水分を多く含んでおり、火災が森に押し寄せてもシロダモやツバキなどの前で鎮火してしまうとのこと。実際、気仙沼を襲った大火災でも保水力のある木の前で鎮火したそうです。成長すると10メートル以上の高木となります。
同じところで採取し、同じように育てた種子でもすくすくと葉を出している苗木から、ひょろっと地面から芽を出しているだけの苗木まで様々でしたが、菅原さんは「すべての苗木を救いたい」と訴え、芽が出ている全苗木を丁寧に1本1本、ポットに移しました。ポットに移されたシロダモの苗木はビニールハウスに並べられ、植樹できる大きさに育てられます。





別のハウスではクロマツの苗木が育っていました。菅原さんによると、マツクイムシへの耐性の強い品種で、シロダモなどを植える土地と海岸線の間の土地に植林する予定とのことでした。松は海から吹く風に強く、乾燥した大地でよく育ちます。その陸側に他品種の常緑樹などを植えることで、「緑の防潮堤」となると期待しています。
三陸では何度も津波被害を経験していますが、こうした丈夫な樹木のおかげで助かったという話が多数あり、今回の震災でもお伊勢浜の近くの高台で十数人がタモなどの高木に上って命を取り留めたとのことでした。つくろう会は植林して森をつくることで、こうした経験を生かすとともに、先人の教えをあらためて後世に伝えるとの意識を強めています。

◆丸太の片付け
梅雨が明けた東北地方は1週間前までの冷夏が嘘のように、気温が上昇。手元の温度計では昼前にセ氏36度を超し、太陽が照りつける快晴の炎天下では作業をちゅうちょするほどとなりましたが、参加したボランティアは皆元気。地福寺の集会室で昼食を取り、休憩した後、全員で丸太の片付け作業にあたりました。


この丸太は畠山さんの屋敷に生えていた35本の杉です。1本は伐採せず、チェーンソーアートの第一人者、城所ケイジさんが約9メートルの高さの「昇竜」を彫刻しています。残りは長さ2~3メートルの丸太に玉切りしてぬかるんだ土地に放置されていました。しかし隣の敷地なので片付ける必要があるものの、今日まで手つかずだったとのこと。



しかし40人のパワーはたいしたもので、丸太を手で押したり、足で蹴りながら転がす人や、何人かで持って運ぶ人など、様々な方法で50本以上あった丸太を40分ほどで事務所脇に積み上げ、全員で記念撮影をしました。


さらに海岸清掃に意欲を見せるボランティアもいましたが、熱中症を心配した菅原さんがストップをかけ、今回のボランティア活動を終了しました。
◆被災地見学
ボランティアが地福寺から育苗ハウスまで歩く途中、立ち寄ったお伊勢浜は2006年、環境省から「快水浴場百選」に選定され、東日本大震災前は穏やかな波と遠浅の砂浜で知られる白砂青松の海岸で、年に10万人近い海水浴客が訪れていました。
この海岸には、国の「復興事業」として高さ9メートルの巨大防潮堤が建設される計画で、既に建設予定図が海岸に立てられています。ボランティアが定期的に海岸清掃していますが、「この海岸が全部、埋められてコンクリートの壁になってしまいます」との菅原さんの説明に全員声も出ませんでした。
その後、一行は近くの名所岩井崎と、市内の鹿折唐桑駅近くにある陸地に乗り上げた「第18共徳丸」を見学して回りました。一行が到着する数日前に気仙沼市長が第18共徳丸の保存を断念すると最終発表。秋にも解体工事が始まるとみられ、姿を見ることができるのも最後となります。全員が震災犠牲者の冥福を祈って線香を手向けました。

ボランティア活動と被災地研修を終え、温泉で疲れを癒やすとともに復興市場で三陸の海の幸を楽しんだ後、深夜バスで東京および横浜に無事帰着しました。
今回のバスの特徴の一つは中学生からの参加を募集したことですが、息子娘と3人で参加したお母さんは「ずっと、中学生でも参加できるボランティア活動がないかネットで探していました。瓦礫撤去のような厳しい作業は無理でも、木を植えるという夢のあるボランティアならできると思って応募しました。子どもたちも被災地に来るのは初めてでしたが、若い仲間が多く一緒に作業できて、何となく成長したようです」と話していました。(記 田崎 耕次)